コンサートホールの前は、多くの人で溢れかえっていた。
これから入場しようとする者の中には、ピオーヴァの学生も多く見られる。本日の演
奏者であるリセルシアとファルシータは、控え室からわざわざ出てきたのか、来賓のう
ちの何人かと雑談をしているようだった。二人の側には、グラーヴェ先生の姿もある。
まだ会場までは少しの時間があった。挨拶をするためにその一団へと近づく。ちょうど
挨拶もし終えた所だったのか、高級そうなスーツを来た紳士の一団が、その場から離れ
ていった。
「こんばんは、グラーヴェ先生。リセルシアにファルシータも」
「コーデルか。君も」
「ご息女の担当をさせていただいていますから」
「ああ、その話はリセルシアから聞いている」
「悪くない話なら良いのですが」
「そう卑下することはない。音楽家としての才能はともかくとして、教育者としての君
は、これでも評価している。正しい道に進んだとな」
「先生にそう言われては、返す言葉もありません」
グラーヴェ先生の手前、話が終わるのを待っていたのかもしれないが、小さな声で、
しかしきっぱりとリセルシアがその間に割り込んだ。
「お父様」
「なんだ?」
「私達は、そろそろ控え室に戻ります」
リセルシアとファルシータは、白と黒と色こそ違えど、同じ作りの美しいドレスを身
にまとっている。一礼すると、ふわっとしたレースが軽やかに揺れ、まるで天使のよう
に清廉に見えた。
「コーデル先生、見に来てくださってありがとうございます。先生のご指導がありまし
たから、このような場でも恥ずかしくない演奏ができます」
人というのは変わるものだな、と素直な感想を抱く。一年生の頃に、何度か個人レッ
スンを行ったことがあったが、そのときのようななにかに警戒するような、おどおどと
した態度はなりを潜めていた。ファルシータと組んだ後からだろうか? そのような変
化が起こったのは。二年になり、私の担当となった時には、すでにその兆候は現れていた。
「それは、グラーヴェ先生に言った方が良さそうだな。ここ数日は、ずっと見てもらっ
ていたと聞いている」
「もちろんです。お父様――お父様にも、本当に感謝しています」
純粋な感謝の言葉に、しかしグラーヴェ先生は、毅然として言った。
「感謝の言葉は、全てが終わってからだ。練習と本番では、意味合いが違う。わかって
いるな? ファルシータも」
「ええ。では行きましょう、リセ」
「はい」
ファルシータは短くそう答えると、リセルシアを伴って会場へと向かっていった。そ
の後ろ姿を眺めながら、少々不謹慎なことを考える。こう完璧に演奏も礼儀もこなされ
ると、あまりに卒がなさすぎて、やはり面白みがない。少しくらい出来の悪い生徒のほ
うが、教え甲斐もあるものだ。
「コーデル」
「……なんでしょう? 先生」
「君はなぜ、フォルテールを弾いているのかね?」
「こうして生徒を見送るためでしょうか」
「今度は、すぐに答えられたな」
「ずっと、考えていましたから」
「そうか」
グラーヴェ先生は、それからしばらくの間、去っていく二人の姿を見つめていた。な
ぜ急にそんなことを聞いたのか、疑問に思ったが、彼の顔に、どことなく穏やかな空気
を感じた私は、黙ってその場にとどまっていた。
「昨日の夜だが」
それに気づいたのか、先生は振り返って突然話し始めた。
「リセルシアが私にわざわざ言いに来た」
その顔には、ほとんど表情らしきものは浮かんでいない。しかしそれは、どことなく
十五年前の先生を思い出させた。
「ありがとう、と。ただそれだけを伝えに」
皺も増え、昔はきちっと纏められていた銀髪も、ところどころ解れ、過ぎ去った年月
の長さを実感させる。しかしそれが、彼の威厳を損ねることはなく、かえって年相応の、
それ以上の風格というものを彼に与えていた。
それにしても……こんなに近くで、こんなに長く話したのは、本当に十年以上も前の
ことだった。不意に懐かしさがよみがえり、まざまざと見つめてしまう。
「つまらない話をしたな。主賓用の席がひとつ空いている。君も来ると良い」
「ありがとうございます」
ご厚意に甘え、私は彼の後についてホールへと入った。
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